こんにちは、とのっちょです。
毎年4月25日はANZACデーという祝日でオーストラリアとニュージーランドは祝日になります。
ところでANZACデーというのが一体どういう日かご存知ですか?戦没者追悼パレードをする日、というのは有名なんですけど、なんでこの日がANZACデート呼ばれるに至ったのか、これを知っておくことでANZACデーをより深いレベルで過ごすことができると思います。
今回はANZACデーについて調べたことや私がこれまで参加したANZACデーにちなんだイベントについて書こうと思います。
ANZACってそもそも何?
私は当初ANZACという軍人がいて、その人がなにか偉大な功績を残したから記念日になっているのだと思っていましたが、全くそんなことはなく、Australlian and New Zealand Army Corps、つまりオーストラリア・ニュージーランド軍団の略称でした。
ANZACの成立と解体、再編成の流れ
ANZACは1914年に勃発した第一次世界大戦のさなかにオーストラリアとニュージーランドの兵士たちが連合国の一員として戦うために結成されました。
設立当時はオーストラリア軍から50000人、ニュージーランド軍から8500人の兵士が参加しました。
ANZACは実は1916年に一旦廃止になりました。これには以下の理由があります。
- 1915年末に発生したガリポリでの戦いから撤退した後にエジプトに戻り、その語西部戦線や中東戦線へと配属された
- 1916年にオーストラリア軍団とニュージーランド軍団に分割され個別の軍隊として独立した
- 第一次世界大戦の選挙区の変化とともに統合舞台よりも各国の軍を独立して運用したほうが効率的と判断された
更に1941年に再編成されています。これは同年ドイツによるバルカン半島侵攻に伴い、オーストラリアとニュージーランドの軍がイギリス軍とともにギリシャ防衛にあたった、このときにANZAC軍団として再編成されたからです。
その後も北アフリカ戦線にもANZACとして投入された、太平洋戦争で日本から太平洋地域の防衛のために重点を置くようになった。
というように1941年以降は改めてANZACとして活動をするようになっていった経緯があります。
これは1941年になると今度はオーストラリアとニュージーランドが軍事的に協力体制を敷くことでより効果的な作戦を展開できると考えられたためです。
改めてANZACが編成された理由は技術革新に伴うスタンダードの変化
1916年には各国が協力することは効率が悪かったのに1940年代に入ると全く逆の認識になったことに疑問を感じましたか?なぜ認識が変わったのかというと理由は以下のようです。
- 第一次世界大戦は主に塹壕戦を行い、国ごとに独自の戦線をもっていたため、局地的な戦闘が多かった
- 第二次世界大戦では戦争の範囲が広がり、機動戦や航空戦が重要になるに伴って各国の軍隊が連携する必要が生じた
- 通信技術の発展に伴って各国の軍隊がリアルタイムで情報を共有できるようになった
- 航空機や戦車の発展により、単独で戦うよりも連携して戦うほうが効果的になった
- 枢軸国(日独伊)の軍事同盟がチームワークで広範囲の侵攻を行ったことに対応するために連合国でも軍事協力を強化して統合的の展開が必要になった
というように技術革新や戦争のスタンダードの変化に伴ってANZACという国家間の協力がさいひょうかされた、ということのようです。
ANZACデーにとって重要なガリポリの戦いとは
それではANZACデーです。ANZACはオーストラリアとニュージーランド、それぞれの軍隊によって構成された軍団なのですが、なんでANZACデーというのが4月25日に設定されているのでしょうか。
そこで外すことができないのが「ガリポリの戦い」とそれに伴うANZACの国際的な地位の変化や国民意識の変化でした。
4月25日-ガリポリの戦い
ANZACデーを語る上で絶対に外せないのがガリポリの戦いです。オークランド博物館に行くとガリポリの戦いのためのコーナーがあるくらいに重要です。
仮ポリの戦いは、1915年4月25日から翌年1916年1月9日まで通ぢたオスマン帝国対連合国の戦闘です。オスマン帝国はドイツと軍事同盟を結んでいたので第一次世界大戦に参加していました。
連合国の目的はダーダネルス海峡を攻略してロシアへの補給路を確保することでした。
この地図にあるチャナッカレとゲリボルの間にあるのがダーダネル海峡です。ダーダネル海峡を通ってマルマラ海にでてイスタンブールを抜けて黒海に出る、ということなんでしょうかね。
そのために連合国はガリポリ半島に上陸します。ガリポリ半島はダーダネル海峡北側の陸地です。そこでオスマン帝国の激しい抵抗にあったことでかなり激しい戦闘になったようです。
このときの犠牲者数も多く、以下のとおりです。
- オーストラリア軍は8700人が戦死
- ニュージーランド軍は2779人が戦死
当初58000人の軍団の内およそ11500人が戦死しました。
最終的に作戦は失敗に終わり連合軍は撤退することになります。これが1915年12月から1916年1月でした。
私はなんとなく連合軍がオスマン帝国を倒したのかと漠然と思っていたんですが、結局作戦失敗していたんですね。
ANZACのトンネル戦術
ガリポリの戦いではANZAC兵士たちがオスマン軍の陣地の地下にトンネルをほった、と言う話を聞いたことがあると思います。
これは、敵軍陣地の地下にトンネルを彫りそこで爆弾を爆発させて敵陣を崩壊させるという戦術でオスマン帝国軍もやっていたようです。
これは西部戦線の塹壕戦でも広く使われていたようです。
トンネル戦術のおかげで塹壕戦を打開することができ、敵陣の突破を試みることができました。他にもトンネル戦術はそれなりの効果を上げていたようです。
ガリポリの戦いで国際的にも国内的にも変わったニュージーランド
ガリポリの戦いを通じてANZACの評価は大きく変わることになります。
というのもガリポリの戦い以前のANZACは、国際的にもあまりまだ知られておらず、イギリス帝国の一部であり、イギリス軍の指揮下で戦うような前提でした。
また、イギリスの植民地軍という味方をされていたので、国際的にANZACという独立した軍事組織があるという認識ではありませんでした。
そのため、ANZACに参加した兵士にも「自分たちはANZACである」と言う認識がなかったようです。
あまりいい言い方ではなさそうですが、ガリポリの戦い以前のANZACは宗主国様に呼ばれて手伝いに行った植民地の人たち、くらいの自己認識だったということかもしれません。
そんな中、ガリポリの戦いを戦い抜いたANZACはその勇気が称えられ、その兵士たちの戦いぶりはオーストラリアとニュージーランドの国家意識の形成にも影響を与えました。
また、この戦いを通じてANZACと言う名前は国際的にも認知されるようになり、このときの戦いで兵士たちはお互いに支え合い強い絆を築き、これは今でもANZACスピリットと呼ばれているようです。
この戦いによって作り上げられたオーストラリアやニュージーランドの国民意識がその後の独立運動などにつながることにもなったようです。
ANZACデーにおけるイベントや用語など
それではANZACデーの詳細について書いていきます。
ANZACデーの一日の流れ
それではANZACデーでオーストラリアやニュージーランドでは何をするのか、というのを以下に書きます。
- Dawn Service
早朝に追悼式を行う。これは兵隊がガリポリに上陸した時間(兵士は夜明けとともに上陸した)に合わせている - 記念パレード
ANZACデーのセレモニーを行う各地で開催されます。これについては開催地によって様々なようです。 - 戦没者慰霊碑への献花
- ラスト・ポストの演奏
戦没者への経緯を示す象徴的な音楽としてラッパ演奏の「ラスト・ポスト」が炎症されます - オーストラリアではツー・アップと言うゲームがこの日だけは合法なんだそうです。これはいわゆる先攻後攻を決めるコイントスでやる賭け事のようです
ANZACデーとポピー(ケシの花)
ANZACデーではポピーの花を象徴として利用しています。
ポピーの花は実はガリポリとは全く関係がないんですが、以下のような経緯があるようです。
- ポピーの花は第一次世界大戦の西部戦線、フランダース地方で多く咲いていた
- カナダの軍医であるジョン・マクレーが戦士した兵士を悼んで「フランダースの野に」という詩を書いたことでポピーが戦没者の象徴となりました
- ガリポリの戦いではポピーはなかったものの、ポピーの花はすべての戦争で命を落とした兵士を追悼するために象徴として広まりました
- ANZACデーはガリポリの戦いを記念する日でもあり、同時にすべての戦争で亡くなった人しても認識されているためポピーがANZACデーの象徴として使われるようになった
そういうわけでフランダースの野にという詩が広まるまでは地元の花や月桂樹の葉が使われていたようです。ポピーがANZACデーの象徴として定着したのは1920年代以降のことのようです。
フランダースの野にと言う詩は「IN FLANDERS FIELDS」と検索することで見つけることができます。
RSAという団体について
ニュージーランドにはRSAと言う団体があります。これはReturned and Services’ Associationという団体で、退役軍人や現役軍人を支援しています。
この団体がANZACデーの追悼式を主催しているようです。
https://www.rsa.org.nz/about/anzac-day-resources
このあたりにRSAが公表しているANZACデーの情報がありますので興味がありましたらご覧ください。
ANZACデーにまつわる都市伝説
さて、そんなANZACデーですが、戦没者を慰霊する、と言うイベントの性質からいろいろな都市伝説があるようです。ここで代表的なものを紹介します。
ANZACデーに日本人は外出しないほうがいい
オーストラリアではANZACデーに日本人は外出しないほうがいいと言われていたことがあり、実は私も聞いたことがあります。
これは日本軍がオーストラリア本土を爆撃したことが影響しているようです。実際ダーウィンやパースにはその辺の記録が残されています。
これは実は昔は実際にあったようですが、今はそんなこともないようです。
ANZAC兵士の幽霊
この手の話になると必ず出てくるのは兵士の幽霊です。特にガリポリの戦いで亡くなった兵士の例が現れるという噂があるようです。
この手の心霊現象はやはりどこでもあるものなんですね。
ANZACデーの呪い
ANZACデーに戦争を軽んじるような行動をすると不運に見舞われるという都市伝説もあるようです。
戦没者慰霊の日なのに不適切な行為をするべきじゃないという戒めということかもしれません。
まとめ
いかがでしたか?オーストラリアとニュージーランドの軍隊が作ったANZACというものについての概要から実際にANZACデーでやることからちょっとした豆知識まで書いてみました。
私もかつてオーストラリアのメルボルンでANZACデーのパレードを見物したことがありましたが、歴代の戦争に言った元軍人やその遺族がパレードをしていてこれが文化というものかと感じたものです。